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今日の訓読のみ言友の会

生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。

神様の解怨と孝子の道(5月19日)

May.19.2016 今日の訓読のみ言

神様の解怨と孝子の道

真の神様 第一章 神様の本体より抜粋

 

真のお父様が歩み来られた復帰の道

 神様のみ旨を成し遂げてさしあげようと決意したことを私はよく知っています。神様の愛がこのようなものであるということを知り、ひざまずいて感謝し、許しの道を行かなければならないということをよく知っている人物です。血が吹き出しても解放の道を行かざるを得ない怨恨の神様だということを知る者はいません。私は拷問を受け、倒れそうな立場にあっても神様の前に祈祷をしませんでした。

 

 私は追い回されましたが、私を助けてくださいと、神様の前に私の行く手を守ってくださいと、私を救ってくださいと祈祷するような人ではありません。私は男としての自分の余力をもっており、自分の気概をもっており、闘うことのできる自体力をもっている人間です。私の力が足りなくて意識を失い倒れたならば助けてくれるであろうから、それまでは自分の力で……。私が行く前に神様が先に準備して待っているということを知っているのです。

 統一教会に神様がおられます。神様がおられるのです。もし私が「あいつ!」と憤りをこらえられずに口を閉じて「今に見ていろ。何カ月かたったときには」と考えようものなら、めちゃめちゃになるのです。それを見ると不思議です。ですから私は舌をかんで我慢するのです。私の口で呪うことはできません。真の父母の名をもった私が自分の口で呪うことができずに唇をかんでいると、天がその怨恨をすべて解いてくれるのです。それを見ると、神様が愛しているということが分かるでしょうか。

 西大門刑務所で……。統一教会に死を覚悟して通っていたのに、私がひいきにしてあげないので出ていった女性伝道師がいたのですが、その婦人が「ざまあみろ。神様の息子があのざまだ」と言いました。私は「監獄で消えるような男ではない。私は解放の世界に向けて跳躍するであろう」と言いました。その人の顔が忘れられません。以前悲惨に死んだというのを聞いてかわいそうに思いました。私はそのように生きている人なのです。この心に染み込んだ怨恨……。五大主権者が私にどのように対したか、みな知っています。しかしながら知らないふりをします。復讐しようとはしません。知らないからです。私が一度会って教えてやらなければならないのです。すべて話してから清算しなければならないのです。

 それでは先生自身は、この地に来るときにどんな立場に立つのでしょうか神様の怨恨の心情をもって、息子として完成した愛で愛することができなかったこと、兄弟として完成した愛で愛することができなかったこと、夫婦として完成した愛で愛することができなかったこと、父母として完成した愛で愛することができなかったことを、愛することによってその恨の峠を蕩減して解いてあげる立場に立っているのです

 利他的なものでなければなりません。神様が利他的な創造理想を中心として投入、投入、投入して真の愛を繁殖するようになっているのです。こうすることによって天下をカバーして本郷の地へと帰らなければならないのです。帰る時には怨讐だからといって足でけ飛ばすのではありません。これを愛することによって自然屈服させなければならないのです。自然屈服しなければ神様が定着することができません。それゆえ文総裁が……。私が手段、方法を使えば誰にも負けません。しかしそれを知っているがゆえに耐えてきたのです。火のような性格で今まで四十年我慢するのはどれほど大変だったでしょうか。神様は私以上であろうに、いかばかりのことでしょうか。

 私が後ろを振り返ってみると、神様が私を抱き締めながら涙を流されたことがあります。「あなたは私の愛の中心です。私はあなたに服従します。あなたに絶対に従っていきます」と祈りつつ、振り返ると、そのように私を抱き締められるのです。その立場はどれほど偉大な立場でしょうか。神様が私にそのような神様の立場を与えてくださるように、今、私もそれと同じ神様の立場を皆さんに与えるのです。何のことか分かりますか。

 考えてみてください。歴史を振り返ってみるとき、四十年前、先生は国に追われ、既成教会に追われ、すべてに追われて、荒野に追い出された孤児のような立場にありました。このような立場から歴史的な基準を再び取り戻し、世界的な版図をつくらなければならないみ旨を前にして、このみ旨を成し遂げなければならない先生の立場はどんなに悲惨であったことでしょうか。第二次世界大戦以後に、神側として確定しておいた勝利的キリスト教文化圏と、自由世界を統治するアメリカの基盤をすべて失ってしまった立場だったのです。主人となった立場からこれを失ってしまった悲痛さと、再び四十年蕩減復帰しなければならないことを考えざるを得ませんでした。神様が有史以来、何十万、何百万年をかけても成し遂げることができなかった、人類歴史を終結させることができるという事実をはっきりと知っていた立場から見るとき、どれほど悲痛だったでしょうか。

 私は雨が降り雪が降るのも知らずに、夜を朝のように早朝のように感じながら、食事をするのも忘れてこのようなことをしてきた人です。安楽に考えることができません。神様を知っているからです。神様を知った罪、誰よりも悲痛な神様であることを知ったがゆえに、私という一身がばらばらに裂かれることがあったとしても、粉になって吹き飛ばされることがあったとしても、この飛んでいく細胞は神様の一点の細胞であると泣き叫ぶことができるならば、男として生まれて価値のある死だと言いながら、死の道を訪ねてもがいているのです。もがいて滅びると思ったら、なくなると思ったらこのようになりました。

 天と地に染み込んだ怨恨がどれほど大きいかを知っているがゆえに、血を吐く立場にあっても神様を慰めなければならないのです。「私は死にそうです、神様、助けてください」という祈祷をすることのできない真の父母の立場に立たねばならない悲痛な事情を、誰が知っているでしょうか。知る人は誰一人いません。唯一神様だけが、神様だけが……。いくら統一教会に従う人が多かったとしても、レバレンド・ムーンの思想に一つとなっていませんこのようなことを皆さんは知らなければなりません。統一家というものは、今日、解放圏に立った統一家というものは安っぽいものではありません。祝福を受けたという者たちが動くその挙動が今日、悪魔のいとこの立場に立っているということを私は知っています。

 「私の闘いがまだ足らなくて、私が涙を流す資格が足らないと感じ、私が悲しめばお父様が涙されることを案じながら、私が打たれて耐え難い悲痛な立場に立てば、天が悲惨な立場に立つのではないかと案じる私の悲痛さは何でもありません。私の悲しみは何でもなく、私の悲しみは何でもありません」と歯を食いしばって私が涙をこぼせば、天が涙をこぼすのではないかと案じ、泣き叫んで怨讐に報いる途上に立ち、先鋒(せんぽう)将として勝利の旗を掲げて勇み立つ勇士がいるとするならば、その勇士の前に神様は百倍謝礼するのです。「お前の名を忠臣としようか、お前の名を孝子としようか、お前の名を烈女としようか。地上の歴史上にたとえ貴い者がいたとしても、お前ほど貴い者はいないであろう」と神様御自身が頭を下げて謝礼するのです。

 私文総裁は今まで個人的に孤独な道を歩んできた人です。孤独でも誰よりも神様をよく知っている人です。歴史時代に孤独な立場で悲痛な神様の心情を中心としてそれを呪いつつ自分に恵みを与えてくれという人は多くいますが、私はそのようには考えません。「神様、心配しないでください」と言いました。そこが違うのです。私は個人的な試練ゆえに後退するような男ではありません。世界の試練を越え、神様を解放して死のうという男が、個人的な過程で降伏することはできません。卑怯者にはなれません。自分の妻が反対しても切ってしまったのです。子が反対しても切り、父母が反対しても切り、国が反対し、四千万、六千万が反対する道を歩んだ人です。

 時間が余りにも短いのです。一生においてこれを直し、満たすためには時間がないのです。先生の生涯がそうなのです。ですから世俗的に見れば先生の生涯はかわいそうなものです。神様に「先生はどんなお方ですか」と聞いてみてください。先生は痛哭するしかない痛みを感じながら、心臓をえぐり出すような痛みをもって身もだえするような悲痛さを体恤しています。先生は地上では悲惨な男です。そのような苦労を誰も知りません。皆、自分が立派な人だと偉そうに威張っているだけで、先生の苦労を知りません。お母様も知りません。

 神様が六千年間苦労して残された功績をすべて失い、興南収容所へ行った先生の悲痛な事情を皆さんは知りません。故郷を離れることが問題ではありません。妻子が問題ではありません。天と地の未来の希望として解放の民族が、私を歓迎しようとしていたその群れが、雲の中の地獄へと消えていく、暗黒世界に去っていくのを見て、痛哭しながら再び会おうと叫んだのがきのうのようです。「お前たちは消えていったが、私は再び私の行くべき道を歩み、光明の朝日を抱いてお前たちを再び探し出して解放しよう」と宣言したのがきのうのようです。手錠をかけられ叫んだその声を忘れることはありませんでした。困難なとき、いつも祈祷したその姿を忘れることができません。

 「神様、あなたはこのようなお方ですね。私の知っている神様はこのようなお方です」と言うと、神様は手を握って痛哭し「お前にはそれが分かったのか。我が息子よ」と言うことになります。その言葉を聞けば、神様は痛哭するのです。大声で痛哭するその声はどれほど大きいでしょうか。その因縁は千年歴史に延長させることができないということを神様は知っているので、涙を拭き痛哭をやめて「我が息子よ」と言うのです。それができる息子が必要であり、娘が必要な神様の立場を知らなければなりません。

 「私は神様の真の勇士となろう。神様のための戦場がどんなに悲惨であろうとも私はその前線に参与しよう」というのが先生の精神です。いくら世界の迫害が押し寄せても、孤独単身で迫害を受ける立場、苦痛の立場にあっても私は神様に一度も不平を言ったことがありません。これがレバレンド・ムーンの誇りです。

 


 

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