御旨と世界 P.760 1979年9月30日
自分自身を知るということは、たぶん私たちの人生において最も重要なことの一つでしょう。あなた方は、「私たち」あるいは「私」と言う時、心に、ある同一性をもちます。例えば、アメリカでは「私はアメリカ人だ」という2億4000万の人々がいます。しかしそれらの人々は、最下層のアメリカ人であったり、非常に高貴なアメリカ人であったり、その中間であったりします。あなた方は自分をどう思いますか。アメリカ国民であることはさておくとして、あなた方は何者ですか? あなた方は親から見れば、その子供です。この国では、あなた方の親は多くの国籍の混血から生まれた子孫ではないでしょうか。ですからあなた方の家系を調べると、多くの種類の国籍が見られることでしょう。あなた方の血統は誇らしかったり卑しかったり、また、あなた方の先祖は誉れ高いか不名誉であるかの、いずれかです。親の血統は、互いに争い合っていたことがあるかもしれません。
統一教会のメンバーとして、「自分は何者か」と自問してみてはどうでしょうか。ここに基本的には二つのタイプがあります。ある人は教会の支柱の一つになっているでしょうし、またある人はここにいてもいなくても大した違いがないかもしれません。あなた方は自分がここで重要人物であるかどうか、ある程度認識しているのではないでしょうか。
人は誰でも、何らかの状況で自分が中心に立つことができるという見方で、物事を考えがちです。なぜかというと、人はそれぞれ、自分は何らかの価値とか重要性をもっていると思っているからです。また誰でも、何らかの野心とか熱望をもっており、人間が欲することには際限がありません。あなた方は、自分が重要人物だと感じますか。また人生において、何らかの熱望をもっているでしょうか。この点に関して、民族間、あるいは過去、現在、未来の人々の間で相違点があるでしょうか。ありません。あらゆる人はこの点で同じです。
人は自分が重要であり、認められたいと思っており、また毎日、自分自身を向上させたいと思っていると結論づけることができます。これは人間共通の熱望です。
私たちが善人であるか、悪人であるかを判定してみましょう。善人という概念にも、様々な種類や基準があります。善人か悪人であるかを決定するのが誰であるか、それを知ることは重要なことです。それは、あなた方がするのでしょうか。それともほかの誰かがするのでしょうか。それは、ある人の個人的な権利でしょうか。それとも多くの人々の意見で、善か悪かを決定するのでしょうか。
善は、公的な観点から判断されなければなりません。そして一人の人が善かどうかは、彼が全体の幸福と利益にどれだけ貢献したかによって決定されることになるわけです。
ある人は、自分が美男子だとか美人だとか誇るかもしれません。しかしもし、その人の指の一本が欠けていたとしたら、その人の容貌は完全と言えるでしょうか。その人は全体的な観点から見て、ある部分が欠けています。価値は、全体的な観点、すなわち全体あるいは完全という観点から判断されます。善人とは、全体が善だと認めることができる人のことです。
ある人が、自分は家族の中で一番善人だ、と考えたとしましょう。すると、私の両親だけは私を良い子だと思うかもしれませんが、もし妹が私をひどい兄だと思っているならば、自分には何かが欠けていると思わなければなりません。それでは、家族の中で一番の善人かどうかを決定するのは誰でしょうか。それを決定するのは、家族全員の一致した見方によります。では、どうしたら家族全員から賞賛されるようになれるでしょうか。それは、私利私欲を捨てて彼らに仕えることです。そのように自分にとって重要な人として彼らに対してあげるならば、彼らはあなたを尊敬するでしょう