生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
良心が正に師であり近い神様
成約人の道 第一章 人生観
良心とは誰でしょうか。私の主人です。私の先生です。良心は誰かというとき、心に似た体を生んだので、私の体の根源です。ですから平面的に、お母さん、お父さんの代わりです。良心は、父母の代身であり、師の代身であり、その次は主人の代身です。(222-157, 1991.11.3)
皆さんの良心は、師が必要ありません。良心は、第2の神様です。師についていかないで、統一教会の先生に侍らないで、皆さんの良心に侍りなさい。良心はどうですか。朝、早く起きて一人、ねずみの子の走る音も聞こえず、はえの飛ぶ音も聞こえない静かな時に、「ああ、私は、こんなことをしなければ。良いことをしなければならない」と言えば、良心が「うれしい! うれしい! 早くしろ!」と言いますが、悪いことを考えれば、心が「こいつ!」と言うのです。心が分かるでしょうか、分からないでしょうか。分かるのです。そうだというのです。心は、よく知っているのです。(138-125, 1986.1.19)
良心の価値、私にとって良心がどれほど高いものかを考えてみたかというのです。良心は、体が間違った所へ行こうとすれば、いつでも忠告し、「こうしてはいけない」と、みな制裁するのです。しかし体は、いつも心を攻撃し、無視し、踏みつけて、自分勝手だというのです。迫害を受けながらでも死ぬ時まで、私にとっての戦友のように、師のように、主体的使命を全うすべく犠牲を払っていくのが、私たちの体についている良心だ、ということを考えてみたかというのです。(217-92, 1991.5.4)
人間の主人は、正に自分の良心です。この良心がどれほど皆さんのために忠告し、昼夜を分かたず悪い考えをすれば、「おい、こいつ!」と言って、疲れずに引っ張って峠を越え、川を渡ろうと、どんなに気をもんだことでしょうか。このように、心は、真の主人の姿をもって私を保護しようとするのに、裏切った体、一つしかない宇宙から貴い師として賜り受けた先生であるにもかかわらず、この先生を手荒にあしらった体、また私の本然の愛の心を引き継いでいけるように、父母の代わりに送ってくださった良心を容赦なく蹂躙したこの体、このように良心の怨讐となったこの体を、皆さんは愛しますか。いいえ!(201-353, 1990.4.30)
もう、私たちが誰かの言葉を聞く時は、過ぎ去りました。どんな真理よりも、1000万倍素晴らしい師の言葉よりも、私の良心の声を聞き、聞いてもまた聞きたくて、その良心を求めていくべきです。そうすれば、私も分からない無限大の何かが出てきます。それが創造の内容です。(7-201, 1959.9.6)
良心が体のために、どれほど犠牲になったことでしょうか。一生の間、蹂躙される良心の事情を皆さんは知っていますか。昼も夜も、私を管理するのにくたびれているのが良心です。それでも疲れずに、体が悪い行動をしようとすれば、やめさせようとするのです。「そんなにやったのなら、もうやめなければならないのではないか。私の言うことを聞かなければならないのではないか」と、そう言うでしょう。自分に一番近い、父母の代わり、神様の代わり、師の代わりの存在が良心です。心自体には、教育が必要ありません。しかし、体には、教育が絶対必要です。(214-283, 1991.2.3)
皆さんの心と体を中心として見るとき、良心がどれほどかわいそうですか。良心は、神様の代身です。良心は、烈祖(注:功績のある先祖)、先祖たちを代表するのです。良心は師を代表し、良心は王を代表するのです。ところが、これまでこの良心をどれほど蔑み、手荒にあしらいましたか。宇宙の中心として真なる父母の立場にあり、真なる師の立場にあり、真なる主人の立場にいる、真の愛をもった主体としていらっしゃる方の代わりにあるその良心が、この地上において私一人を収拾するために、どれほど犠牲になったことでしょう。そのように犠牲になりながらも不平を言いますか。ただぞんざいに扱われ、引っ張り回されながら、死んだと思っていたのに、悪い考えをもって夜中にどろぼうでもすれば、「おい、こいつめ!」と再びよみがえって忠告するのです。 皆さんは、そのような良心を、どれほどもてあそびましたか。心は父母の代身であり、良心は師の代身であり、良心は主人の代身です。良心の世界には、公判が必要ありません。(209-154, 1990.11.28)
私自身に、偉大な師がいることを知りませんでした。良心は、偉大なお母さん、お父さんの代身なのです。お母さん、お父さんが良心に逆らって訓示するはずはありません。良心がお母さん、お父さんのように訓戒するとき、服従できなければなりません。このようなすべての秩序的環境において、起源になり得る道義的な結論が出ていません。そのような公式が出ていないというのです。良心を虐待してはいけません。皆さんは、二重人格が好きですか。良心は、先生の代身、父母の代身、神様の代身です。良心に教えられる師は、いません。(207-267, 1990.11.11)
すべての人間は、それぞれ自分の中に、最も貴い師を一生の間ずっともっているのです。にもかかわらず、その師を間違って待遇し、踏みにじり、濫用します。その師が、正に人間の良心です。私たちの良心は、常に私たち自身にもためになるように言葉を語り、私たちを真の愛と連結させてあげようとします。父母のように私たちの良心は、私たちをして善なる非利己的な人になれと促し、神様のみ意に従って行動するように導いてくれます。しかし、各自の心の中にはまた、良心の声にいつも逆らう反乱者がいます。その反乱者が、まさしく肉体なのです。(201-208, 1990.4.9)
「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」というのは、道義の道を開拓したときの標語でした。「宇宙主管を願う前に、この世の万事と何らかの関係をもつ前に、自己主管を完成せよ」と言いました。主人になれる、師になれる、父母になれるこの方(良心)を、私の体が千年、万年仕えても不足だという自分自身を発見するときに、初めてここに天運が臨むのです。良心は体のために生きようとするのですが、体は良心のために生きません。これが問題です。問題は、私自身にあるのです。社会にあるのではありません。(201-154, 1990.3.30)
このように良心は、真なる主人の姿をもって私を保護しようとするのに、裏切ったこの体、宇宙から賜り受けた一つしかない貴い師であるにもかかわらず、この先生を容赦なく手荒にあしらったこの体、また私の本然の愛の心を引き継げるように父母の代わりに送られた良心を容赦なく蹂躙したこの体です。このように心の怨讐となったこの体を、皆さんは、愛しますか。いいえ。心と体の闘いをやめさせる前には、天国はないのです。いかなる聖人も、このようなことを考えませんでした。(201-154, 1990.3.30)
陰と陽、性相と形状というプラス・マイナスは、相対的であって、相反することができません。しかし今日、堕落した人間には心の声もあり、体の声もあります。心と体が一つになっていません。神様に似て生まれるべき男性や女性の心と体が、どのように分かれたのかというのです。これが問題です。
神様は絶対的な方なので、私たち人間においての標準相である心と体が絶対的に一つになり、神様の全体世界に和合し、一つの中心的な役割をすべきなのにもかかわらず、私たちの心と体がどのように分かれたかというのです。心と体が分かれたのが、心のままになされたことなら、神様はいないのであり、理想や統一や平和や幸福といったものの基地を見いだすことができません。(195-305, 1989.12.17)
神様は、遠くにいらっしゃるのではありません。私の中にいらっしゃいます。良心が皆さんの主人でしょう。夜に悪いことをしようとしても、現れて「行くな」と言い、いつでも現れて主人の役をし、どこででもお母さんのように、先生のように教えてくれるのです。ですから、この体のやつが怨讐です。体が怨讐だというのです。(201-76, 1990.3.1
神様は誰に似ましたか。私たちに似ました。男性と女性です。皆さん、心は見えないでしょう。心を見たいですか、見たくありませんか。神様も同じです。
皆さん、心と体が一つにならなければ駄目なのです。そこに焦点を合わせなければなりません。祈祷するとき、心と体が呵責を覚えるものがあれば、悔い改めなければなりません。悔い改めるときは一人ではいけません。東西南北を備えなければなりません。自分に一番近い人、父母に通告しなければなりません。師に通告しなければなりません。その次に、自分の息子、娘に、自分の弟子に通告しなければなりません。「私に、これこれこのようなことがあるのだが、許してもらえるか」と言うのです。こうして、心を合わせて後援を受けられる、このような道を行かなければなりません。何のことか分かりますか。(184-301, 1989.1.1)
心と体がいつ統一できるのか、それを考えなかったでしょう。これが深刻な問題です。一生の間、心と体が闘うのですが、この闘いをやめさせる者は誰でしょうか。これが問題です。私たちのお母さん、お父さんもやめさせられません。王もやめさせられません。師もやめさせられません。聖人もやめさせられません。この心と体の闘いをやめさせられる主人は、どこにいるのでしょうか。深刻に求めてみましたか。それが真の愛だというのです。(184-211, 1989.1.1)
良心は、皆さんの番人となって昼も夜も皆さんを守ってくれ、皆さんに休みなく、「善なることをしろ。善なることをしろ」と言うのです。ですから、どんなに疲れるでしょうか。生まれたその日から、意識的に考えることができ、社会環境において、すべての制度を分析できる知能的起源が生じるその日から、生涯ついて回るのです。自分の師もついていくことができず、お母さん、お父さんもついていってくれませんが、生まれたその日から死ぬ時まで、永遠に良心は、私に対して命令するというのです。神様に似なさい、聖人に似なさい、愛国者に似なさい、孝子に似なさい。そのように似ることを願うのですが、「体よ、お前は私に似なさい」と言うのです。(179-312, 1988.8.14)
皆さんの心と体の統一も、真の愛でなければできません。ですから心は、体のために犠牲になりながらも忘れ、また忘れ、また忘れるのです。良心は、神様の代身としての立場なので、皆さんの師の中の師です。その良心は、神様が御自身の代わりに送ってくださった、私の中心です。縦的な私です。(226-60, 1992.2.1)
各文章の末尾にある( )内の数字は、原典『文鮮明先生み言選集』の
巻数とそのページ、または、み言を語られた日付を示しています
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