今日の訓読のみ言友の会

生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。

「お父様の心情圏と一つになれ」 神山先生の講話(2)2014年9月14日SEOUL

 私が統一教会に来るよう になったのは ー私の父が牧師で、母もそうでした。私の父は再臨運動に熱心な人でした。「メシヤが来るんだ。メシヤが来るんだ」と。私はその影響を子供の頃から受けていました。「メシヤが来るんだー」私もキリスト教会に関心を持って、洗礼も受けてメシヤが来るのを待っていました。 しかし、キリスト教会の内部にいろいろな問題があることを私は知りました。またいろいろの質問に対しても、満足した答えが得られないのです。忘れられない一つの質問は、イエス様の言われた「汝の敵を愛せ。迫害する者の為に祈れ」ということでした。 なぜ迫害する者の為に
祈らなければならないのか、怨讐を許さなければならないのか、という質問に対して私は答えを得ることができませんでした。

 今日のキリスト教会に対して、理解できないそんな立場にありましたが、それでも幼き頃から感じた再臨のメシアは、雲の乗って来ると言うことに関心をもち、本当に雲に乗って来るのか ・・・ 。そうこうしているうちに私は、お父様を知ることが出来たのです。そしてお父様というお方は - 原理のみ言を通して、み言を学ぶそのなかで、お父様がメシヤであるということを知りました。その時の私の感動は、皆さんは想像することがで
きないでしょう 。「雲に乗って来るのではないんだ。私達と同じ肉体を持って来られ、この世界を大改革される方なのだ。その方の前に私はこれから 一体何ができるだろうか」ということを真剣に考えました。

 そんな私をお父様が見出してくださり、お父様の近くで働くことが許されるようになった
のです。「汝の敵を愛せ、迫害する者の為に祈れ」 理解できえなかったイエス様のみ言を、お父様は私に丁寧に説明してくださいました。それは感動的でした。そのイエス様のみ言を聞いた時には、「敵がいるのに何故許さなければいけないのか。どうして迫害する者の為に祈らなければいけないんだ。敵がいるんだったらバッサリと斬っちゃえばいいじゃないか。抹殺してしまえば敵はいなくなるじゃないか。力で抹殺してし
まえばいいじゃないか」とそんな風に考えたこともあったのです。

 しかしお父様は「君の前にある敵を滅ぼすことができたとしても、その背後にいる、君をコントロールする見えないサタンを滅ぼすことができない。見えないサタンを正す為には、怨讐を愛する以外に道がない」 と言われました、 私は、お父様と、ダンベリーの刑務所にお供する事ができました。その時、怨讐を愛していく、お父様を私は見ました。怨讐を愛さなければいけないと言葉で説明された。その説明だけでなくて、自らその道を歩むその姿を通して、私は本当に人間として、できない様な事をされていくお父様の姿に接して、私は本当に驚きでこの身が硬直するほどに衝撃を受けました。

 ダンベリーの刑務所に行ってみると当然囚人としての扱いですね~。忘れることので
きない、1985年7月20日の出来事です。刑務所に行き私は考えました。お父様がいったいどんな悪事をなして、こういう所に来なければならなかったのか。考えられないような罪状を理由にしてお父様がそういう所に追い込まれていく。一体何故このようになるのだー。

 お父様は言われるのです。アメリカに行って、世界的な立場でアメリカ の国民をまとめ
ながら、神のみ旨を成さなければならない。しかしその時のアメリカ国民は、ニクソン大統領と 一つになれない状況 ー 国民はニクソン大統領に対して、ウォーターゲイトの問題を持って糾弾して大変な状況でした。それでもお父様は、国民とニクソン大統領を一つにさせ、その基盤の上に大きな摂理を進めようとされました。

 お父様がアメリカに行かれた時に、一挙に人々から信じられるような基盤を作る為に、最初の3年間に、大きな仕事をされました。すでに皆さんも御存じだと思います。基盤ないアメリカの地に、お父様は祖国韓国を後にして行かれました。勿論それ以前に宣教師の何人かの方々が活動されていましたが、そこに集まって来ていたのはわずかな人達でした。

 お父様がまず始められたのは、アメリカ国民を目覚めさせる大クルセードでした。
一番最初の大会は ー 誰もお父様に歩調を合わせる食口がいないので、リンカーン・センターという所で神のみ言を伝える為 にー、お父様が自ら行って会場を借りる契約をし、大会に臨むありさまでした。そんな状況の中で、世界的な摂理を進めなければなりませんでした。

 そして、カーネギー・ホールでの大会、次に、マジソン・スクウェアー ・ガーデンの大会、続いて、ヤンキー・スタジアムの大会、ワシントンの大会と進めていかれました。その時代に私も呼ばれたのです。私は名古屋教会の責任を持っていましたが「よく仕事をやるということだから、先生と一緒に、ご褒美に旅行をしよう」、という話でした 。「旅行だったらいいな」ということで、私は、お父様に呼ばれて喜んで行きました。ところが旅行が目的ではなくして、アメリカで大きな天の摂理を進めるために、お父様は私を選び出して連れて行ったんだ、ということが後でわかりました。私の最初の大会はカーネギー・ホールの「1300名の席を全て埋めて、そこで先生は天来のみ言を伝えるから神山が準備するように。3日間続けてやるから」と・・・・。
 言葉のわからない中で私は本当に困惑しました。「お父様 ~ 私は言葉ができないから、アメリカでの活動はできません!、私は、名古屋に帰りたいです」 と、そんな思いを持っているときに「いいよ、君、死んだと思えば名古屋に帰れないんだから」 私はお父様にそう説得されて、与えられた使命の中で懸命にー。お父様が言われるのです 。
「先生と一つになれ!。先生の心情の基準に一つになれば必ずできるから。先生の前に絶対的なマイナスの立場に立って大会の準備をせよ」 と・・・・。

 カーネギー・ホール大会の準備をしました。1日目、2日目、3日目と夢中に食口と一丸となって準備しました、多くの人が集まりましたけども、上のほうの席がすこし空いていたんですよ。お父様の前に満杯にしますからと言って約束したのに、私は本当に申し訳ない思いとともに、最終報告をする為に、 お父様のもとに行きました。そしてお父様の前で泣き崩れてしまいました。「約束したのに出来ませんでした」 と。

 お父様は「神山、泣くな。いいから、先生、これからマジソン・スクェアー・ガーデンでの大会を計画するから、そこに25000人を集めて、その悔しさを晴らせ」 。 1300名の大会が出来なかったのに25000名集めろと言うのです。「先生の心情圏と一つとなればできるから。先生の心情基準にひとつになれ!」。私達は無我夢中でその基準を求めて努力しました。結果として マジソン・スクェアーガーデンに人が集まり。25000人が会場に入り、さらに25000人が外に溢れたのです。

 お父様と共にアメリカにいた食口は、本当にわずかな人しかいませんでした。少ない数で大会に臨みました。大会が終わってホッとした時にお父様は「次の大会はヤンキー・スタジアムだ。そこに50000人の人を集めろ」「ええっ、 50000の人をどのようにして?集める~?」。「お父様、私は言葉が出来ないのです」 。「そのようなこと言うな。耳も聞こえず、言葉もできない人も世の中で立派に生きてるよ! 先生と一つになればできるから、 やれ!」。無我夢中でした。

 いよいよ大会の日、忘れる事が出来ません。1976年6月1日。お父様がアメリカに来られて、何年もたったのではありません。お父様も出来るはずだ! できるんだ !と言われた、いよいよ大会のその日 ・・・大変でした。 雲行きが悪い。マジソン・スクェアーガーデンは屋内でした、ヤンキー・スタジアムは屋外です。朝から雲行きが悪い・・・・。
大会がはじまる数分前に - 、お父様の講演がはじまるちょっと前に、大変なことが起こりました。

 豪雨と突風が吹いて、せっかく準備したデコレーションが、すべて飛ばされていくのです。バケツでこぼしたような雨がー 。いやぁー、大変です。お父様がメシヤなら、神様が守るはずじゃないか、と思いつつ、その様子をお父様に伝えるためにお父様がおられる控室に私は走りました。ずぶ濡れになった姿でお父様のもとに行き、「お父様、この大会は神様までが見捨てました-」と、お父様の前に泣き崩れました。

 その時のお父様は「何を言う! 神山!」

すごいその時のお父様の剣幕。

「やるんだ ! 最後までやって見なきゃわからないじゃ
ないか! やるんだ! このやろうー!」いやぁー、もう- 凄 すごいーお父様の気迫。
 
そんな
勢いに押されて外に出てみました、外は、ますます大変。雨はもっと酷くひどくなって、強風で全てが飛んでいく状況。そのような中で誰が歌いだしたのか ー
You are my sunshine (あなたは私の太陽) ” という歌が巻き起こり、そこに集まった人達 ー 大会はないものだと思いどんどん帰って行く人の中でー食口達がそして、集まって来たゲスト達が、スクラムを組んで歌を歌い始めた、その歌で皆が一つになったその時です。すごい勢いで雨が降り、風が吹いていた、その雨風がピタッと止まるのです。そして雲が二つに分かれて、太陽の光が射してくるではあり ませんか。それは、それは感動的でした。私は偽りを言っていません。当時の映像を見てください。
記録に残ってます。

お父様が第一声を放った時には、それは感動で震えました。私がお話したかったのは、お父様の心情圏に繋がり、その心情圏のもとで食口が本当に一つになったならば、天が共にあり、奇跡が起こるんだ、ということを私は身をもって体験した内容です。そしてその大会はこのような困難な環境の中でも成功のうちに終わりました。

 しかし私の心は満足できなかったのです。ヤンキー・スタジアムの50000人が入る席の上の方が嵐のため、少し空いていたんです。それで私はお父様に申し訳ないという思いで、次の日の祝勝会においては、後ろの隅にいて、お父様から見られないような位置にいました。それでもお父様が「神山!」 と呼び、叫ぶんです。
「悔しいだろう!」
私の心をお父様は見透かしていました。

「先生は次にワシントン・モニュメントの広場
で30万の人を集め、大会をやるから準備して、その悔しい思いをはらせ!」。
ワシントン・モニュメント大会は何年か後かと思いました。お父様は「すぐにやるんだ」。

 1976年6月1日がヤンキー・スタジアムの大会、1976年9月18日に大会やるのだと。数ヶ月。 6 、 7 、 8 、 9月 の 18 日、 およそ3ヶ月の準備でやる。ヤンキースタジアムはニューヨークにあるのです。ワシントン・モニュメントはそこから遠く離れた所です。ニューヨークで働いていた部隊を移さなきゃならない。その作業は考えることができないほど大変です!お父様はまた言われるのです。

「先生と一つになるんだ。できるんだか
ら」

 私はワシントンDCに行きモニュメントの広場に立ってみました。広いこと、広いこと。
足がガタガタと震えました。「どの様にして、ここに30万人を集めるの?」。働いている食口達は、ほんのわずかな人達で、ヨーロッパからも手伝いにきました。日本からも来ました。言葉もできない人達です。

 しかし、その大会の準備の為にお父
様も真剣でした。お父様の祈りの場所は船の上でした。荒れ狂う波に乗ってお父様は祈る。その大会の成功を祈り、私達のもとにたえず訪ねてこられました。「先生も真剣だよ ! 」。
その大会の勝利の為、神の摂理が浮くか沈むかという、そんな浮沈をかけた勝負になるのだから、朝も昼も、先生、どっちがどうだかわかんなくなる」 。そしてまた私達を訪ねて、「先生、トイレに行かなきゃならないのだけれども、あまりにも大会の成功、大会の勝利を願って、自分のおかれている位置がわからなくなる、トイレの中で、とんでもない所に流してる。そのくらい、先生、真剣だ!」その話を聞く食口達も真剣になりましたー。

 結果的に大会に30万人がその広場を埋め尽くしました。私が皆さんに 、 なぜこのような話をするかと言うと、お父様が持たれている心情圏、お父様の心情圏に一つとなれば出来ないことはないことを私は経験したからです。お父様と一つになれば、恐れることはない、出来ないことはないと私は信じています。今、私達はほんのわずかな人達かもしれません。しかし、お父様の心情圏に繋がれば考えられない事が起ります。
 
 今まで、世界的にうまく
事が進まない。それは、お父様の心情圏と一つになっていないから、いろんな問題が起こってくるのだと私は思います。
 しかしお父様は短期間に、
その実績をアメリカ社会に見せ付けました。そして多くの人達は、レバレンド・ムーンという方がどんな方か知るようになっていきました 。


 それで、ニクソン大統領と国民がお父様のその実績の前に一つになれば良かったけ
れども、難しく、出来ない。その蕩減のゆえに先生はダンベリーの刑務所に ー 先生と一つになれなかったその蕩減の内容をダンベリーで償うんだということでした。

 先生
はアダム国家、君はエバ国家だから君も入ることになる」と。私も行きました、刑務所にー。刑務所での話をします。


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