2014年9月 17 日
メシヤたる者はいかなる者か
今日皆さんにまず紹介したいお父様の御言葉があります 。
「 メシヤたる者はいかなる者か。メシヤは、ただ一つ、神の 内心にあったその愛があるとすれば、その愛の全体が集結したその愛、方向を固め、出発点を同じくして、一致した方向のそ の愛を、 総合された愛を受ける最初の者である。その者とは何か。神の前に初めて生まれた長男。長男だね。分かりました?
メシヤとは何かというと 、神の愛の前に初めて生まれた、神の愛の前に立った、初めて神の長男としての愛を受けるそういう立場に立った者がメシヤだ。だから、イエス様 もそういうことを言ったんだね。イエス様はひとり子、一人息子である。ひとり子、息子であるというのは、全体の愛を受けることである。始めから終わりまでね。神が絶対 なる主体となれば、 (メシヤは)男として、絶対 なる主体圏 に立つ者だ。それはどんな立場か 。父子の 関 係だ。 父子の 関 係 。分かりました?
だから神の全体の愛を、個人に向ける愛、それから家族に向ける愛、氏族、民族、国 家、世界に向ける愛。神の長男の子供として、すべての 圏 を超越したその基準において、代表的な愛を受ける資格をもって 来 られる者が何? ( メシヤ)。だから、神の子供。神の愛する子供が生まれてきた。しかし、愛する子供一人で何になるか。子供自体は、その相 対 者を得なければならない 」。
( 御 旨と世界 ) P. 852
メシヤ というお方がどのような お方かということをお父様が説明している の です。
人類歴史 はその一人を求めて歴史は綴られて きた の です。
至る所で紛争があり至る所で問題が起こって蕩減の代価を払ってその一人を見つけるための歴史であった の です 。
そして神様がその一人を送った。神の愛の全てを持ってこの地上に来られた方がメシヤでした。
「 相対者をどこから得るか。天上から得るんじゃない。 堕落の結果地上で失ったんだから、地上で再創造しなければならない」
それで地上において宗教は何をやったかというと、天がプラスと言えば、地はマイナス。だから、天に向けてメシヤを願う。愛の主体者を願うところは神様ではなくして、この地球だね、人間世界だね。主体の愛を願うんだ。その思想がメシヤ思想だ。メシヤを迎えるために、世界版図を拡大して、個人の環境を超えて、氏族の環境を超えて、国家環境、世界圏につながるようなそういう基台を拡大しよう。拡大して、世界全体がその主体の神の愛の男の前に一つになる。何も反対する者がない絶対服従する。自分自体はもう存在しない。ただメシヤのために存在するといようなそういう雰囲気を世界的に準備しようとするのが旧約時代、新約時代の使命だ。
こうなれば、簡単になるんだね。旧約時代、新約時代の使命は何かというと、地上にその相対者を求めてくる。 そのメシヤの前にエバをつくる。絶対服従するエバ圏の拡大を成し得て、その反対する者のない立場で、愛の主体にその一点で結ばれれば、自動的に全体が結ばれる。そのような環境、世界的環境をつくろうとするのが、旧約時代の使命であり、それから新約時代の使命であった 。そうなると、今のキリスト教、ユダヤ教はメシヤに完全に服従すべきである。
しかし、今まで、信仰してきたクリスチャン、信仰してきたユダヤ教の人たちは、メシヤが来た場合には、すべてを捧げる、完全に服従するというような信仰観念をもつべきなのに、今のクリスチャンはどうだ?今のユダヤ教はどうだ?神の願う伝統精神から見た場合に、これは180度違う。まるっきり反対だね。地上に来られるメシヤはともかく、神の摂理の勝利圏はともかく、自分が地上において成功すればいいと、こういうような考えをもつ宗教は、最後になれば神にやられる。
最後になった場合には、この地上に影も形もなくなるように打ってしまわなければならないのが神の立場である。だから、そういうキリスト教や宗教は、末の時期になったら完全にやられる。 天の鉄槌に打たれる。 理論的だね。こういうような、その末の時期に、世界のクリスチャンは、「ああ、メシヤ、主様……」と再臨を願う。その願う内容を分析してみると、「ああ、自分が救われたい」。神の勝利圏については何も思わない。自分が天国に行きたい。自分の家族が救われたい。自分の国。それは限界である。みんな国を越えて世界の果てまで、霊界まで拡大すべきなのにその限界を縮小して、自分自身、自分の国以上拡大できない。これは、サタンの作戦においては成功した作戦だ。この基準が残っている以上は、神の世界は生まれてきません。分かりました?
(御旨と世界) P.852
お母様はお父様について来ます。絶対服従すれば通ずるんです。何故かというと、エバがアダムを主管したのが堕落であるから、このあやまちから復帰きされるには、アダムに完全に主管されなければならない。しかし最前方に立って闘うのはアダムがやらなければならない。それは60数億の民を悩みの底に落しているのはサタンである。しかし天使長をしてサタンとならしめた、即ちそれを決定ずけたのは誰かというと、アダムである。エバじゃない。だからアダムが最後の決断をしなければならないという立場が、どこまでもある。だからこれを世界のはてまで追いよせてゆかなければならないというのが先生の使命観であるわけです。
「心情の境」 1967年6月 12 日
絶対服従とは、 常に自分の観念がない立場です。存在しているという観念もありません。すべてのものを投入して、忘れるからです。無限の低気圧によって無限の高気圧が生じるようになっています。絶対無限の低気圧と高気圧が垂直の所に来るのです。そこで自然と一つになります。 偉大な力がそこに生まれるのです。
絶対投入して忘れることによって、無限の力が存続し始めます。
それはなぜかというと、投入して忘れるという観念には、投入して忘れる神様の愛の心情が連結されるからです。ですから、宇宙は消耗しないのです 。
「絶対服従」という言葉の意味の中には、自分の意識がありません。意識がある限り、それは従順です。服従とは、意識がないのです 。 神様が創造されるとき、神様御自身が存在意識を忘れてしまわれ、絶対無の立場で、絶対真空の立場で投入されたので、絶対高気圧圏の愛の相対を探し出すことができると考えるのです。それは理論的です。
それで堕落した人間には絶対服従という命題を掲げるのです。神様は絶対的に大きな主体ですが、小さな主体がプラスとプラスで反発するのです。ですから、絶対主体であられる 神様の前に完全否定していきな さい、マイナスになりなさい、このような意味の服従です。完全にマイナスになれば、一瞬のうちにプラスにぴたっとくっつくのです。それが天地の道理です 。
「後天時代の生活信仰」より抜粋 ( 167)
子供とお母様の根っこは何かというと、渋柿の根っこから切って取り返してきたものです。分かりますか? それが天の家庭に入るには、手続きをしないといけないのです。何の手続きかというと、愛の手続きです。だから、真のお母様の腹の中に入っていても、それは真のお父様の真の愛と真の血統にはまだつながっていないのです。お母様は真の愛と真の血統を持っていません。向こうのほうなのです。
( 1993 年 12 月 20 日 真の父母と重生)
それで地上において宗教は何をやったかというと、天がプラスと言えば、地はマイナス。だから、天に向けてメシヤを願う。愛の主体者を願うところは神様ではなくして、この地球だね、人間世界だね。主体の愛を願うんだ。 その思想がメシヤ思想だ。 メシヤを迎えるために、世界版図 を拡大して、個人の環境を超えて、氏族の環境を超えて、 国 家環境、世界圏 につながるようなそういう基台を拡大しよう。 拡大して、 世界全体がその主体の神の愛の男の前に一つになる。何も反対する者がない。絶対服従する。自分自体はもう存在しない。ただメシヤのため に存在するというようなそういう雰囲気を世界的に準備しようとするのが、 旧 約時代、新約時代の使命だ」 。
(御 旨と世界) P. 852
このように 、 その 一人を歴史が求めて来た。それが、 その方が 、 私たちが慕う真の お父様ですね。
私も私の父がキリスト 教会の牧師であり母もそうでした。私の父は 、 内 村鑑三先生と関係の深い 中田 重治 先生 と共に再臨運動を激しく やった人です 。 そのよう な環境の中で私が育ってき たのです 。 ですか ら 幼い ころから 私も再び来 る再臨のメシヤ ということに対 して非常に 関心がありまし た。
(Church of God) 既成教会に於いての洗礼式
しかし、当時の キリスト 教会 にも いろいろな問題が あり教会に対して ある失望を感じていました。それと共に 、 私は 一つの疑問を持っていました 。 イエス 様が「 汝の敵を愛せよ。 迫害する者のために祈れ」 と 語られます 。私はそれが どうしても理解することができなかった のです 。 「何故怨讐を愛さなければいけないのか。
そしてまた何故迫害する者のために祈らなければいけないのだろうか 。 迫害する者が居たら怨讐と感ずる人がいたら、なくしてしまえばいいじゃないか。ぶち殺したらいい」正義感からそんな思いを持っていました。
その答えを多くの キリスト教会の牧師先生方に尋ねました。 しかし何ら私を満足させる返答を得ることができませんでした。 ところが私は統一教会 に 来 て 真の お父様を通してその答え を知らされた時に驚きと 感動 を 受け ました 。何故 、 怨讐を愛さなければいけないのかというその理由 を ダンベリ ー の刑務所のなかで お父様 は私に丁寧に説明してくださった その事を 、 今でも忘れることができません。
ダンベリ ー の刑務所に私は多くの本を持って 入りました 。その本はお父様が過去に語られた御言葉集、日本語の本になっている御言葉です。この機会に私が今まで持って い た ところの いろいろな疑問 を そして理解できない部分を お伺い したい と思っていました 、 この期間を 逃したら 今後直接 に お 父様から 聞くことができないだろうと思い 、 持 って 入ったのです 。
そしてその御言葉集を私が一人で読み始めた時に お父様は
「何を一体君は読んでいるんだよ 」
「はい。これは過去に お父様が語られたみ言です」
「そうか 、 では先生の前でそれを読んでみなさい」
と言われ
時間があればお父様の前で拝読し ました。
私が刑務所を出る 10分前まで拝読 したのです 。私が理解できない部分、疑問とするところを 、 お父様にお聞きしました。お父様はそれに 対 して丁寧に説明してくださいました。 語られた内容のなかで、 「先生はこう語ったのに 、 ここ にはこういうように書かれている。これは先生言ったことじゃないよ。それは韓国語から日本語に 訳 したその人の過ちによってこうなってしまった。大変 な過ちをしているよ 」 といって正してくださいました。拝読したみ言の重要な部分をお父様が選定され一冊の本にされました。それが「御 旨と世界」という本で した 。
それで お父様が 「神山、 この本を持って多くの人たちを指導する の だ。 教育するんだ。必要なみ言はこの中に全部入っている 」 とお父様に指示を受けて私のできる限りを尽 くして 歩んでまいりました。ある時お父様は私に 「 あの本を持って(御 旨と世界) 教育して い るのか。 しっかり と 教育して い たら日本は こういうことに ならなかったのに 」 と 言われて お父様 に 叱責されました 。 その時の 申し 訳ない思いを忘れることができません。
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