生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
人の生涯人格者の道
「人格者の道」第三節 真なる人の行くべき道より抜粋
「人格者」とは
人格者はどんな人か? ご飯だけよく食べて、ご飯のために生きる人が人格者ですか?、芸術や文学や詩に造詣があり、豊富な鑑賞をしながら、山に対してささやき、野に対してささやき、流れる水に対してたたえることのできる、このような人が人格者ですか?
どちらが価値的な人間に近いかというならば、ご飯を食べる人は物に近いのです、物。何の物? 動物に近いのです、動物に。動物に近く、その次に自然を楽しみ、抒情の心情が豊富な人々は何かというと、神仙に、神仙に近いのです。人の中には二種類があって、一つは動物的な人間で、一つは理想的な人間です。(85・143)
どんな人を人格者というか? ある社会制度の中で、中心的な位置に立つことができる人を人格者といいます。例えば、ある町内で尊敬される人格者がいたとすると、彼はその町の内外に住んでいる人々に、生活的に精神的に中心的な作用ができる人です。それでこそ彼は、尊敬の対象になりうるのです。
それは、国家においても同じです。国家もやはり国家の代表者、すなわち、一人の人格者を中心に国家が形成されています。その人格者を中心に、国民が相対的関係を結ぶことによって、実体的な組織が形成されるのです。このように考えるとき、範囲が広い世界にもやはり中心的な人格者がいるべきなのです。
人格者といっても、外的に、すなわち、肉体的に見れば普通の人と別に差がありません。しかしながら、内的に見れば、思想的な面であるとか、精神的な面が普通の人とは違います。
このように見るとき、人格者を決定しうるのは、人の外的な面ではなく、精神的な面であるということが分かります。それゆえ、人間の精神的分野を中心として人格を論じるべきなのです。
この精神的な分野を広げる者になるためには、心の世界を知らなければなりません。心は無限大に接しうる能動性を持っています。このような点から見るときに、人が持っている欲望は体から生じるのではなく、心から生じるということが分かります。心は絶えず作用しながら、無限な欲望をかきたてています。
また、私たちの人格を中心にして見ても、人格というものは、ある社会や国家や世界の限界圏に限定されているのではありません。さらに進んで、過去、現在、未来までも越えうる、絶対的な最高の基準を見つめながら進んでいるという事実が分かります。このように、絶対的な位置まで進もうとする内心の作用を見るとき、心の世界は無限と通じているという事実が分かります。(25・125)
ある人を人格者であるというときには、その人の外貌や学閥、経歴または地位を見ていうのではありません。どれほど、原理的な立場で生きているかということを見るのです。それゆえ、何か外的に華麗で多様なものを強調するのではありません。心が天に仕えるにおいて変わらない人、そのような心を持って、神様のみ旨に合わせて生活していける人が人格者なのです。(19・285)
人格とは何か? 人格は、言葉だけでなく、心情と関連したものが人格の表象であり、これが永遠の基準になるのです。それで、今日私たちは、心情の神様を主張し始めたのです。これは、最後の神様の人格の基準です。神様は愛であるというために、愛の本質である心情の起源を中心として、そこからわき出る人格を中心として…。その人格の下に、天理の大道を明らかにしていこうという主張をするにおいては、今日統一教会の文なにがしに、だれもついていけないのです。(84・123)
悟りの世界で人格完成という標準は、どこから出てくるか? 愛から出てくるのです。神様の無限で絶対的な愛を中心として、人格完成ができるのです。(33・79)
今日、多くの人々は、絶対的な中心を持っていないために、心が朝夕で変わります。そういう人々を人格者といえません。人格者とは、一生を通じて約束したことを守る人であり、義の水準が高い人です。何かが決定した後には、こうだああだと弁明があってはいけません。皆さんは、自分が約束したことに対しては、宇宙の法則が変わったとしても絶対に変わらないという、人格者になるべきです。(23・100)
人格者は、だれかと約束したことがあれば、それを履行し実践します。これは自分が主張して約束したことであるために、自分はこれに従わないという人がいれば、彼は人格者ではありません。法は公的な基準を中心として、約束したものです。それゆえ、その法の約束圏内にいるすべての人々は、その法を守らなければなりません。約束した人がその法を守れないときには、共同的な法度により、制裁を受けるべきなのです。これが法を遵守すべき人々の責任です。
だれが主張したにせよ、立てられた約束は実践しなければなりません。実践しなければ、落伍者になります。約束というものは、約束した基準、すなわち、線なら線、点なら点を中心として、すべてが一致しなければなりません。(31・13)
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