御旨と世界P.607
外にいる人々に唾をかけられたり、打たれたりしても、そういうことが苦しいことではありません。かつて共に食口として歩んだ人が、神を裏切って去っていく時、それ以上悲痛なることがあるでしょうか。そういう痛みまで体験して初めて、イエス様が外的な敵、すなわち具体的に十字架に釘づけた人々による外的迫害、裏切りだけでなく、ユダによる裏切りのごとく、最も痛い内部からの内的迫害を受けた方であることと、その痛みというものを少しでも理解することができるでしょう。
先生は共産陣営のみならず、自由主義の韓国においてさえ、刑務所生活を体験しました。西大門刑務所に行ったその日のことは、永遠に忘れることができないでしょう。その日、刑務所に引かれていく時、一人の教会から去ったかつての食口が先生に駆け寄ってきて、侮蔑(ぶべつ)に満ちた嘲笑を浮かべながら言ったのです。「あんたはまだそんな馬鹿なことをやっているのかい、俺のように早く卒業することだな」と……。先生は永遠にその男のことを忘れることはできません。一言も語らず黙然として彼の前を引かれていきましたが、心の中で神に向かって叫びました。「神よ、今こそあなたの義と、私のあなたに対する従順を証させ給え」と。
このようなことを一度ならず幾度となく味わってきたのですから、目を閉じて祈り始めると、いつも涙を止めることができずに痛哭する先生です。神のそういう悲しい内情がよく分かるからです。そして同じ事情を味わい、その心情を知ればこそ、そういう神の心情を誰よりも慰めることができるのです。親はもちろんのこと、妻も子供も分かってはくれない、一人として理解する者もない、そういう時こそ、孤独なる神の友となることができるのです。
一人の男がこんなにも弱くなり得るものか、と思ったこともありました。ある意味では同じ弱き一人の人間に変わりないのです。しかし自分をそんなにも頼りにしている神であることを知っていますから、そういう神の心情を思うと、いても立ってもいられなくなり神の願いを果たして神を慰めたいという思いにかられます。
「神よ、全能なるあなたは、その望むところの何事も成すことがおできになりますのに、御自分の子なるアダムとエバの罪のゆえに、御自身をそのような苦悩の中に陥(おとしい)れられました。苦しむべきいわれもないあなたが、かくも寄る辺なき身となられて、真に頼ることのできる子女を、そんなにも長い間ひたすら待ち続け、探し求めてこられました。私にはそういうあなたのお心がよく分かります」。
誰でも、先生の内面の世界をかいま見ることでもできたならば、ただ“わっ”と痛哭せずにおれないでしょう。特に、常に神に祈り、霊界を見たり啓示を受けたりしている霊通者たちは、みなこういうことを言ってきます。「文先生について祈る時は、いつも決まって神様からの答えは“涙”です」と。先生のことを祈ると神様は泣かれるというのです。寂しい一人の人、文先生を見つめる時、人知れずすすり泣いておられる神様なのです。