強く雄々しくあって、失った福地を回復しよう 『文鮮明先生み言選集第二巻』
私たちが責任と使命を引き受けようとするならば、神様は私たちに何を強調されるでしょうか。神様が荒野でモーセの使命を引き継いだヨシュアに、「強く雄々しくあれ」と言われたのと同じように、私たちにも「強く雄々しくあれ」と強調なさるはずです。これから私たちは、世界的カナン福地を見つめ、そこに入っていくことを願いながら荒野にいるという事実を知りヨシュアとカレブのような心と体にならなければなりません。
すると今日、世界的なキリスト教徒たちはどのように生きなければならないでしょうか。ヨシュアとカレブのような存在が現れて、この地上のキリスト教を導いていくことを天の前に訴えなければならないのです。中心を失い混沌と混乱を起こしているこの荒野時代で、これを収拾していく方向を提示できるヨシュアとカレブのような存在が現れなければならない時になったのです。このことを今日、キリスト教徒たちははっきりと悟らなければなりません。ここでは、自らの教派が問題ではありません。私たちはそのことを知らなければなりません。
ヨハネの黙示録第11章では、2本のオリーブの木に対する預言をしています。これは何を意味しているのでしょうか。世界的なカナン復帰の路程を出発するのに先立ち、ヨシュアとカレブのような存在が現れることを予告しているのです。モーセの代わりに現れたヨシュアとカレブがユダヤ民族を導いてカナンの地に入っていったのと同じように、今日にもイエス・キリストの福音をもったヨシュアとカレブのような人たちが現れて、神様の民を率いて世界的なカナン福地、新しい希望のカナン福地に向かうようになるでしょう。
またヨシュアとカレブに従ってカナンに入っていった群れが、カナン7族を滅ぼしたように、皆さんにはサタンを滅ぼさなければならない責任があるのです。そういう天の勇士になり、そのような路程を歩むべき責任が、皆さんにあることを肝に銘じなければなりません。
そして、新しいみ言を主張するヨシュアとカレブがこの地のどこに現れようとも、人々の心の扉を開いて、み言を聞かせ、天のために生きられるようにする私たちにならなければなりません。
ヨシュアとカレブの行く道は、冒険の道でした。彼らが歩いた道は、難しい開拓の道であり、闘いの道でした。行く先々で開拓者の使命を果たさなければならない、厳しい道でした。時には個人的に、あるいは環境的にぶつかってくる試練と闘わなければならない路程が、彼らにはあったのです。
モーセがイスラエル民族を率いてカナン福地に向かって出発しようとする時、パロ王がモーセを殺そうとし、イスラエル民族の中にもモーセを不信して反対する人が多かったのと同じように、ヨシュアとカレブの時にもそのようなことがありました。このようなことをよく御存じの神様は、ヨシュアとカレブに「強く雄々しくあれ」と語られたのです。「強く雄々しくあれ」、このみ言は何を意味しているのでしょうか。それは、「人間的なすべての条件を乗り越えなさい」という意味です。
それで、イエス様も三大試練を通して、人間的なすべての条件を乗り越えて勝利されました。したがって、2000年が過ぎた今日の皆さんも、人間的なすべての条件を乗り越えていく途上において、強く雄々しくなければなりません。
ヨシュアは個人の闘いの路程から最後の瞬間まで、勝利の路程を歩まなければならないモーセの代わりの立場に立てられたために、神様は彼に「強く雄々しくあれ」というみ言とともに「対する個人を怨讐と思い、対する民族を怨讐と思い、対する土地を怨讐の土地だと思え」という忠告のみ言を語られたのです。
私たちを打つでしょう。しかし、選ばれた私たちが団結し、死ぬ覚悟で最後まで闘う第二のヨシュアとなり、死ぬ覚悟でイエス・キリストに従い、世界のキリスト教に責任を負うことができる聖徒たちになるならば、私たちは目の前に展開するいかなる闘いの道も乗り越えることができます。それゆえに神様は、私たちが強く雄々しくあることを願っていらっしゃるのです。
それでは、私たちは自分自身においてどのようにしなければならないでしょうか。まず強く雄々しくなければならない立場にある私たちは、自分自身を正しく見つめることができなければなりません。自分に間違った点があれば、自ら批判することができなければなりません。また、30年あるいは40年の生涯を経た自分であるとだけ考えてはいけないし、現在生きている自分ということだけを考えていてもいけません。