御旨と世界 P.267
悪とは何でありましょうか。悪とは、この世界への利己心の顕現であります。神の利他的な与える原理は、神ならぬ利己的な奪う原理へとゆがめられてしまったのです。仕えるよりも仕えられることを望む邪悪な立場が、その時から打ち立てられたのです。悪の根源はサタンであります。彼は神に仕えるべき立場におりました。しかし、彼は、もう一つの神のような態度をとり、人間を自分自身の利益のために従属させたのです。
神は、この宇宙における絶対的なプラスの力であります。そして、サタンもまた、もう一つのプラスの力をとろうとするのです。二つのプラスは、互いに反発し合うものです。サタンは、堕落した天使長であり、神と人間に対する忠実な僕としての立場を離れて、神に挑戦し、神と競争したのです。彼の動機は利己心でありました。彼の利己心から悪と罪の源が出てきたのです。
罪悪世界におけるこれらすべての行為は、利己心から起こってくるのであります。悪は、自己自身の利益のために他を支配するものであり、善は、他の利益のために自己自身を犠牲にするものであります。
人間の堕落以来、神の仕事は、本然の善を復帰することでありました。神は悪なる世界を滅ぼし、善なる世界を再創造することを願っておられるのです。我々は健康を失ってしまったのです。我々は病人になってしまったのです。それゆえに神の救いは、もう一たび人間を健康な状態へと復帰することなのであります。
イエスは、救い主として来られましたが、彼の教えは、「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」(マタイ20・28)と説いているのです。イエスは世界でもっとも大きな愛は、敵のために生命を捨てることであると教えました。聖書の教えは、この世の一般のルールには反しています。それはこの自己中心的世界の方向とは全く逆なのです。聖書は完全に与えることと、全き犠牲とを説いています。「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(マタイ10・39)。この悪なる人間社会においては、このような生き方をまじめに考えることすら、ばかげたことに思われます。しかし、一たび神の原理を知ったならば、実際これよりも偉大な知恵はないということを発見するようになるでしょう。
イエス・キリストの教えは、正にこの根本的な真理の真髄を突いていました。人は、与えれば与えるほど、受けるようになるのです。神は、完全に与えるものに対しては、完全な愛をもって報われ、完全な犠牲に対しては、完全な生命をもって報われるのです。与えることは、神の愛が入ってくる空間を生み出すことなのです。あなたが与えることによって空間ができ、それが大きくなればなるほど、ますます急速に、あなたは神の愛の流れによって満たされるようになるでしょう。
良くしてもらうためには、まず、あなたが、他の人に対して良くしてあげなければなりません。あなたは、蒔いたごとく、刈り取るのです。悪を蒔けば悪を刈り取り、善を蒔けば善を刈り取るのです。あなたの関心はどのように与えるか、どのように良く与えるかということに向けられなければなりません。それは神が取り計らってくれるからです。
自分を超えて与え、仕えることによって、この人は栄えるようになるのです。彼は、神の原理に基づいて生活しているので、彼は調和と統一の中心となるのです。自分を超えた無私の精神は繁栄をもたらすのです。このような人が善なる人であります。これは普遍的な真理なのであります。自己中心的な主義、自己中心的な哲学、自己中心的な生き方は、自己崩壊という悲劇的な道にあなたを真っ逆さまに放り出してしまうのです。しかし、もしあなたの人生を他への奉仕に生きるならば、あなたは栄えるでありましょう。そのような生き方は、あなたを滅亡に導くように一見、見えるかもしれませんが、決してそうではないのです。
それが必ずしもあなたに繁栄をもたらさない、ただ一つの理由は、あなたが最後の最後まで、すべてを与えるということをしないということです。途中で、突然あなたは、懐疑的になるのです。そして、あなたは自分で自分の慈悲の心を変えて、完全に与えるという神の法則から外れてしまい、そのため、善なる結果は決して実現されなくなってしまうのです。完全に与えることは、繁栄への道であります。なぜなら、それが神のやり方であるからです。